江戸川堤桜
現在は葛飾区側で花見というと東金町五丁目の交差点から始まる水元さくら堤があり、水元公園内と共に季節になれば、たくさんの花見客が集ってくる場所だが、かつては江戸川の堤防上での桜が名所となっていて、たくさんのお客さんが集ったようだ。
伸び行く松戸に描かれた桜堤
1936(昭和11)12月5日に松戸町役場発行から発行による”伸び行く松戸”という松戸紹介の栞がある。この中に描かれた松戸市の鳥瞰図には江戸川対岸の東京側に桜堤が描かれていた。下の部分である。
場所としては、葛飾橋と常磐線の鉄橋の中間くらいからスタートして、柴又の辺りまでという感じだろうか?又鳥瞰図裏面にはこんな事が書かれている。
五、柴又帝釈天江戸川堤桜
共に江戸川の対岸東京市葛飾区金町にあり、帝釈天は庚申の日を命日とし、都人士の参詣夥しく、桜堤は此の霊地を中心に南北二千米突間の江戸川堤塘にあり、春の賑は飛鳥山上野に勝る。又、此の附近一帯は東京市の風致地区にして此処より東方松戸町を展望せば遥かに江戸川を隔てて、緑深き森に包まれ優雅に起伏せる一連の丘陵は全く一幅の名画の如し
松戸市商工会議所観光協会発行の松戸市観光案内絵葉書
松戸市商工会議所観光協会発行による松戸市観光案内絵葉書のタトウにも江戸川堤の桜並木が描かれている。
ただ、これについては、距離感が良くわからない絵になっていて、常磐線や葛飾橋の周りにあるような絵になっている。
大正時代の江戸川堤の桜並木写真ご紹介
大正時代の絵葉書をお持ちの葛飾区の方もこの桜堤を回想している
葛飾桜の歴史
「江戸川堤」の桜は、大正から昭和の初めに行われた河川改修によって姿を消し、「中川堤」の桜も太平洋戦争の時に燃料不足のため切り倒されてしまいました。往時の姿をとどめているのは桜土手だけです。
昭和の初めまでに姿を消したとありますが、昭和11年の松戸町の鳥瞰図や昭和30年初め頃発行の松戸市観光協会の絵葉書のマップには江戸川堤の桜は描かれていますね。また、私の尊敬する故稲葉八朗さんも若かりし頃(昭和30年前後)に行ったことがあるとおっしゃってました。
近代の河川改修と放水路 :江戸川の改修工事
下は葛飾区史による内容だそうです。
江戸川の桜は篠崎堤など・・・
江戸川の桜は篠崎堤でも盛んだったようで、なんと、日露戦争後から始まっているそうで、どこが最初に始まったのか調べてみないと分からないが、下記のリンクの中に昭和20年代当時の花見船の写真があった。
篠崎の堤桜
https://www.shinozaki-bunkaplaza.com/library/docs/library/pdf/84.pdf
桜堤が消えたのは
江戸川の桜堤が無くなったのは、水害対策の為の河川堤防工事の末であると思うが、詳しくはわからない。ただ、昭和22年のカスリーン台風、昭和33年9月の狩野川台風が大きく影響したんじゃないかな?と考えています。以前、国土交通省の方と何らかの会合で堤防を散策する際に堤防上に日よけの樹木がたくさんあった方が良いのだがと伺ったことがあります。
その際、非常時(台風などの満水状態の時)に川を見通せなくなる樹木が堤防上にあるのは不利なのだ・・・という話を聞いた覚えがあります。部分的には植樹が出来ても、江戸川堤の桜並木の様に並木が長く続いた名所というのは、中々非常時には難しい存在なのかもしれない。
江戸川堤の桜花見の絵葉書
(大江戸川堤の桜)柴又川甚楼附近 絵葉書
1790年(寛政年間)に開業された川甚さんは230年の営業を誇ったが、一昨年、2021(令和3)年1月末日閉店してしまった。寅さんの映画にも登場したし、寂しい限りである。
ただ、葛飾区が買い取ったそうだ。ただ、区の構想では、老朽化が進んでいる本館は解体し、新館を展示施設として活用するとの事なので、今後どうなるのか期待したい。
(東都桜花満開)江戸川の桜花観桜会の賑ひ
東京府大江戸川堤の桜
江戸川の渡し船
これが、葛飾区側なのかそれとも松戸側なのか何とも言えないが、撮影されている写真の右端の樹木は桜に見える。左側の木はどちらかというとカワヤナギなどではなかろうか?つまり葛飾区の金町側であるとみている。どうだろうか?
最後に
現在は国土交通省が河川のスーパー堤防化を進めています。これによって、かつての桜堤が復活できる機運が高まるかもしれません。
今回の投稿では出しませんでしたが、東京鉄道局の制作した「江戸川堤の桜 臨時列車運転」のしおりでは、臨時列車などが金町まで来るなど、かなり盛んだった事がわかります。又、東京鉄道局というのは、大正9年5月15日に鉄道省が発足してから、昭和24年6月1日に日本国有鉄道が発足し同7月末まで使われていた名称で、その間に作られたしおりという事になります。
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