浜松のお話

浜松凧祭り

鍛治町の初凧 浜松のお話
鍛治町の凧凧揚げ場 2009年5月3日撮影
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浜松まつり

コロナ禍で暫く開催できなかった浜松凧祭り、2023年に5類に移行したことから同年開催された。下記はその時のニュースで、活気が戻った事で嬉しい。

浜松の凧祭り

浜松市民は端午の節句に行われる凧祭り、浜松まつりを楽しみにしていて、その期間中は思いっきり弾ける・・・祭りが終わると、翌年の開催まで楽しみに毎日を送る・・・といった印象だった。お祭りを中心一年が過ぎるこのお祭り好きな浜松市民の意識構造があったように思う。そして、私が浜松に居たのはたった二年だけであったけれど、その心意気の流れの中にあったと思いたい。

ただ、お祭りの間中は思いっきり大きな声で叫びながら凧揚げをしたり、夕刻からは街中で御殿屋台の引き回し、練りをこれまた思いっきり大きな声で弾けるので、祭りが終わった翌日は喉がガラガラで声が枯れてしまう。そして声が枯れた同士で話をすると「お前もか」といった感じで連帯感が醸成される。

初子、初孫のお祝いの練り

私は鍛治町の町会長の承認された腕章を法被の肩の部分に縫い付けて鍛治町として参加した。下記のビデオは2023年に行われた比較的最近の凧祭りのニュース映像だが、初子、初孫の生まれた家の前で練りまわし、お祝いをする。私が当時参加して練りまわした家は、今で言うとザザシティの裏辺りだったと思う。

あの当時だと西武が建っていて、その裏辺り沿いが鍛治町だったので、そこにあったおでん屋さん(おでん居酒屋だったか?)に行って練りまわしたのを覚えている。目がクリっとした店主の嬉しそうな顔が忘れられない。あの当時の住宅地図があれば見当がつくのだけれど、今手元にないので分からない。

あの初子の祝いで練りまわしてから40年経つので、多分今は凧祭りの幹部になって、若手の指導をしているかもしれない

凧祭り会場

凧揚げ場

凧揚げ場 2009年5月3日撮影

戦前は練兵場のあった和地山が凧祭り会場として使われていた様だが、昭和40年代現在の中田島砂丘横の凧場広場(遠州灘海浜公園内)で行われるようになったらしい。私が参加したのは昭和57年頃なので、遠州灘海浜公園の凧場広場だった。この頃、鍛治町の大凧は卸本町の倉庫街の様な場所にあった。ここから凧場まで運んだ記憶がある。

一度自分のジェミニで行った日があったが、駐車場はかなり制限されていた記憶がある。凧揚げに参加する人は参加者用の許可証をもらい、一定の場所に誘導された記憶がある。十数年前に婚約者であった現在の妻を連れて、浜松に行った際は、ピストン輸送のバスがホテルから出ていたのでそれに乗って行った。

その時、バスで真珠堂宝石店の西尾さんが同乗していて挨拶したっけ・・・

初凧と喧嘩凧

凧祭り

2009年5月3日中田島砂丘にて撮影

凧場は風が吹かないと凧が上がらないので、風が少ないと会場の空も寂しい。ただ、風が吹き始めると皆一斉に凧を上げるので段々賑やかになってくる。風が強くなれば、凧糸を緩め、弱くなると手繰る。この調整が難しい事がある。また、風の具合で右に移動したり左に移動したりする。この為、異なる町会の凧と絡んでしまう事も少なくない。

凧糸が絡むとそれが喧嘩を仕掛けられた絡みでない限り、そっと絡みを外すべく、移動をする事になる。凧場で揚げる凧には町内自慢の大凧と所謂初孫、初子を祝った初凧があがるが、初凧には喧嘩をしかけるのはご法度である。初凧は子供の成長を願いすくすく育ってもらうために、落下してしまっては元も子もない。

初凧は家紋と子供の名前が書いてあるので、一目瞭然なのだが、多くの人数がひしめき合い、どうしても絡んでしまう事もある。この初凧に絡んでしまった場合は注意深く、絡みを外す努力をする必要がある。例えば上写真は初子凧で、大工町にお住いの方で、家紋は片喰紋、名は有威(ありたけ?)君であろうか?

喧嘩凧

町内自慢の大凧の場合は喧嘩を仕掛けられる場合がある。この場合、凧糸を交差させる事によって始まり、交差したら、そこで凧糸を手繰り、弱めるを繰り返し、摩擦で相手の凧の凧糸を切ってしまうわけだ。これを切り合いという。原理としては、子供の頃草相撲をした経験のある方なら分かると思う。

オオバコの花枝同士で引っ張り合い切れた方が負けというあの遊びだ。あれのコツは花枝を何度も右、左と引っ張り相手の接点を一か所にしぼる様に持ち込み、要するに点と線との戦いに持ち込ませる訳だ。点の場合は、その点だけが執拗に摩擦され、線の方は摩擦される部分が全体になるので、切れるのに時間がかかるので勝てるという訳だ。

あの原理を利用すれば喧嘩凧に勝てるという仕組みだ。ただし、切り合いが一対一であればそうなるが、実際は5つも6つも絡まる時があり、訳が分からなくなる事もある。

テギについて

テギとは滑車の事で、多人数で凧糸を手繰りたい時に使用する。凧場に行くとこの風景をよく見かける。上のYoutubeは浜松市高町の方々のテギを使っている様子。高町は浜松城の南側、五社神社の北側の町。高町がおかめ印なのは、高町の豆菓子製造販売する評判堂の商標から来ているらしい。

凧祭りで知り合った方々

鍛治町の御殿屋台

鍛治町の御殿屋台1984年5月3日撮影

上の写真は1984年5月3日、西武デパートの前にて、幹部の方々と撮影した。この頃、幹部の方に「次は幹部だな!」と冗談でしょうが、声を掛けていただいた。恐れ多くてそんな大役出来ないけれど、そのお心遣いが嬉しかった。

渥美のヒロさんと一緒

渥美のヒロさんと一緒
1984年5月3日

この写真は凧場で渥美ゴザ屋さんのヒロさんと

そういえば、2009年5月に妻を連れて凧場を訪れた。その際、春華堂の社長とおあいし 、挨拶をした。「山ちゃん、覚えているよ」と言われ、何だか嬉しかったね。浜松土産は今でもうなぎパイですよ。

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