”千葉市の展望” 昭和な絵はがきセット
発行は千葉市役所、千葉市観光協会、千葉市商工連合会となっている出州海岸の写真や地引網の写真から昭和25年から昭和30年代前半ではないかな?
千葉市鳥瞰図
この地図を見ると都川河口の寒川の湊の形状が囲まれていないので、昭和25年くらいの写真であろうか?
出州海岸潮干狩、地引網
この絵葉書の中の写真の部分を抜き出してみます。
出州海岸潮干狩
松戸に住んでいた私は潮干狩りといえば、船橋ヘルスセンターか谷津遊園だったので、千葉市まで潮干狩りに来る事は無かったが、この賑わいの感じは全く同じだ。この風景であると多分港や川崎製鉄を背に海岸の北方向を見ているのではないかと思う。
出州海岸地曳網
千葉市で地曳網が出来たというのが、非常に新鮮な感じがする。私は九十九里浜で行われた地曳網の催しに参加できないまま今に至る。あ、そうそう新潟県上越市の鵜の浜温泉での地曳網も海が荒れていて中止になってしまって、参加できなかった。いつか参加したいものだ。
海岸線の話
出州海岸の潮干狩りや地引網の写真をみても、2022年現在の千葉出州海岸附近にはその面影はないです。出州海岸と言っても分からない人もいるかもしれませんので、戦後1945-54年くらいの間の海岸線と干潟を下に載せます。太い黒いラインが海岸線、水色で現した部分が干潟で潮干狩りが出来る場所。2022年現在の地図に乗せています。
極端に違いを感じませんか?
かつての出州海岸、登戸海岸
”海の記憶写真館”のホームページで昭和33年頃の出州海岸と登戸(のぶと)海岸等の写真を掲載していらっしゃいます。登戸は京成新千葉駅-京成西登戸駅までの一帯です。貴重な写真の数々ですね。
埋立地変遷については、下のpokapokaport(ポカポカポート)さんのホームページをご参照下さい。
千葉市議会議員の鷲見隆仁さんのページで昭和初期の出州海水浴場が描かれた鳥瞰図がありますね。
亥鼻公園より市街、荒木山公園
亥鼻城
亥鼻城について:NHK大河ドラマの鎌倉殿の13人に岡本信人さん演じる千葉常胤様が登場されますが、この千葉常胤様のお父様である、千葉常重様が1126(大治元)年に構えた居城で、亥鼻城の近くに都川が流れていますが、その河口付近は寒川という地域で、下総の国の湊として栄えた場所ですね。
荒木山公園
荒木山について:亥鼻城からはぐっと年代が下がります。1908(明治41)年にこの荒木山やその東側の椿森地区一帯を旧陸軍鉄道連隊隊の練習場と定め、1918(大正7)年の改編によって、この椿森地区は鉄道第一連隊となります。熊本出身の荒木克業(かつなり)大尉は、この鉄道第一連隊の第二中退所属でした。
1932(昭和7)年、張学良軍率いる東北民衆救国軍によるホロンバイル事件が起きます。関東軍の命令で第14師団に東北民衆救国軍の撃退と邦人救出が行われます。この第14師団に荒木克業大尉の所属していた鉄道第1連隊の第2中隊が組み込まれ、列車追撃隊が編成され、荒木大尉はその小隊長となります。
1932(昭和7)年12月3日大興安嶺(ハルピン)で敵の攻撃を受けて、橋梁が損傷した際に、修理していた時に不幸にも落石があり殉職してしまいます。この荒木大尉の殉職を哀悼する為に鉄道第一連隊によって、演習場のラッパ山と呼ばれていた場所に銅像を建てましたが、その荒木大尉にちなみ、荒木山と呼ばれるようになったわけです。
ただ、戦争末期の金属供出の際にこの荒木大尉の銅像も同様に供出され、現在は何もなく、忘れ去れようとしていますが、どうか皆さん、記憶には残してくださいね!
千葉寺 千葉神社
千葉寺とは千葉寺町にある古くからあるお寺、千葉神社とは所謂”妙見本宮 千葉神社様”です。
千葉寺
千葉寺については、千葉県公式観光物産サイトの”まるごとeちば”ホームページでは下記のように説明されています。
千葉寺は、飛鳥時代和銅2年(709年)に行基が自作の十一面観世音を安置して開いたと伝えられます。本尊は十一面観音です。中世には千葉氏の尊崇を受け、千葉氏累代の祈願寺として栄えました。寺は坂東三十三ヶ所の第29番の観音霊場札所として知られ、千葉市内最古の寺
千葉神社
千葉神社については、千葉県公式観光物産サイトの”まるごとeちば”ホームページでは下記のように説明されています。
千葉神社は、千葉氏の守護神、北辰妙見尊星王を主祭神として長保2年(1000年)に北斗山金剛授寺として中興開山されました。「通称・千葉の妙見様」と呼ばれ親しまれています。
最後に
この絵葉書は15年前に入手したものでしたが、表の家の本家は松戸の情報だった関係で、暫くお蔵入りでした。表の家別邸でやっと発表出来るようになりました。
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