浜松のお話

浜松で良く通った場所-1(サムデイ編)

浜松城 浜松のお話
浜松城天守閣 2024年5月21日撮影
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私が浜松で良く通った場所

私の浜松生活において、原点となったのはグランドホテル浜松のスカイラウンジ”サムデイ”に他ならない。ここには多くの思い出が詰まっている。サムデイだけでページがいっぱいになってしまったので、今回はサムデイについて書きたい。

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スカイラウンジ”サムデイ”

先代社長&奥様

先代社長&奥様

私が浜松で、多く通った場所は何を隠そう、グランドホテル浜松のスカイラウンジ”サムデイ”だった。先代社長が特別ジャズに思い入れの深い方だった事もあり”サムデイ”のバーカウンターに座れば色々なミュージシャンの演奏を楽しめた。私は当時、“酒とバラの日々”を夢見つつ、足繁く”サムデイ”に通った。

ネーミングが素敵だった。”サムデイ”(Someday) は直訳すると「いつか、いつの日か」で、このSomedayは未来を表す「いつか」だ。類語のOne dayは過去を表す「ある日」。”サムデイ”、先代社長が自分の夢を実現したとても魅力のあるスカイラウンジだった。私が常駐当時は当然ながら新館が無い頃で、現在の本館のトップフロアにサムデイがあった。

タイムアンドエスパー

サムデイはいい場所だった。プロモーターのタイムアンドエスパーがミュージシャンを仕切り、入れ代わり立ち代わり色々なミュージシャンを呼んでいた。社長さんは木村真由美さん。実はこの木村真由美さんのご主人はベース奏者の故木村信弥さん。木村信弥さんは兵庫県芦屋の生まれ、大阪音大ピアノ科出身。

木村信弥さんはピアノを専門にしていたが、学生時代にプロとしての活動をしたい為、大学の規定で専攻していた楽器でのプロ活動が許可されなかったために、やむを得ずベースをやりはじめた人なのだそうだ。木村信弥さんの奥様である真由美さんは実はグランドホテル浜松で1975(昭和50)年1月にお見合いをし5月に結婚したらしい。

故木村信弥さんはミュージシャンとしての活動以外に1974(昭和49)年にエスパー・プロモーションを立ち上げている。ジャズメンの横のつながりがあって、グランドホテル浜松でのジャズ演奏が盛んだった根源には、この故木村信弥さんの存在が欠かせない。ただ、木村信弥さんは翌年1976(昭和51)年に42歳にして他界された。

エスパー・プロモーションを立ち上げてから他界されるまでのマネージしたミュージシャンは、沢田駿吾、世良譲、吉屋潤、与田輝雄、清水潤、林美果、水浦マリアなどである。木村信弥さんの死後、木村真由美さんがエスパー・プロモーションを引き継いだ。ただ、私が木村真由美さんと名刺を交換した1983(昭和58)年頃は、タイムアンドエスパーという社名だった。

深田稔さんとの出会い

http://hassh.in/oita/base-1-%EF%BC%86-jazzcafesakaba-alpha-fekata-minoru/

また当時タイムアンドエスパー社に勤務していた深田稔さんは、演奏の日は、カウンター付近でダークスーツを着こなし、演奏している状況を事細かにチェックしていた。深田さんには後に懇意にしていただいた。その後、私は浜松での常駐が解け帰京した。あの頃は、東京勤務しているのに、心ここに非ずといった感じで、度々、愛車の黄色いジェミニ(オペルカデット風)で浜松に向かった。

深田さんが私の勤務先から近い神谷町のオフィスにいると聞き、会いに行ったこともあった。二度目に深田さんの居たオフィスに電話した時は、ニューヨークに行ってしまいましたと言われたっけ・・深田さんは実はベース演奏者で、ピアニストの奥さんが居た。いつだったか、共通の知人だったハープ奏者のKさんが羽田東急ホテルで演奏していると聞き、深田さんに連れられ、羽田東急のラウンジを訪れた。

Kさんの演奏終了後、再会、ご挨拶をした後、深田さんの家に遊びに行った。いつしか、深田さんと奥様の演奏が始まった。奥様はピアノ、深田さんはベース。この組み合わせで”どんぐりころころ”ジャズバージョンを二人で演奏してくれた。素敵でかっこよかった。深田さん、今は九州でバンドを組み演奏活動をされているそうだ。

静岡放送(SBS)の「Invitation to Jazz」

静岡放送(SBS)の「Invitation to Jazz」への放送として、グランドホテル浜松からの中継も行われたようで、下記は1981年2月号の”スイングジャーナル”を参考にさせていただいた。

日程 演奏したミュージシャン及び人数
1977(昭和52)年10月15日 今田勝4
1977(昭和52)年11月19日 八城一夫3
1977(昭和52)年12月23日、24日 松本英彦4
1978(昭和53)年1月7日 北村英治4
1978(昭和53)年2月18日 藤家虹二6
1978(昭和53)年3月18日 前田憲男3
1978(昭和53)年4月22日 鈴木章治4
1978(昭和53)年5月20日 中村八大4
1978(昭和53)年6月3日 秋満義孝4
1978(昭和53)年7月15日 松本英彦4
1978(昭和53)年7月22日 クレスト・フォーシンガーズ
1978(昭和53)年8月26日 マーサ三宅
1978(昭和53)年9月9日 ジョージ川口3
1978(昭和53)年10月14日 前田憲男3
1978(昭和53)年10月25日 横内章治3
1978(昭和53)年12月22日 笈田敏夫+小川俊彦3
1979(昭和54)年1月20日 タイム・ファイブ
1979(昭和54)年2月17日 伊藤素道+薗田憲一&デキシー・キングス
1979(昭和54)年3月17日 松本英彦4
1979(昭和54)年4月1日 ジョージ川口3
1979(昭和54)年5月19日 北村英治4
1979(昭和54)年6月9日 美保敬太郎4
1979(昭和54)年7月7日 阿川泰子+中島正男バンド
1979(昭和54)年8月25日 原信夫と♯&♭
1979(昭和54)年9月29日 酒井潮3
1979(昭和54)年10月27日 市川秀男3
1979(昭和54)年11月1日 乾宣夫3
1979(昭和54)年12月21日、22日 三保敬太郎3
1980(昭和55)年1月19日 中川喜弘とデキシー・ディックス+ドーリー・ベイカー
1980(昭和55)年2月1日 平岡精二4
1980(昭和55)年3月8日 猪俣猛とザ・フォース
1980(昭和55)年4月12日 鈴木章治とリズム・エース
1980(昭和55)年5月17日 松本英彦4
1980(昭和55)年6月28日 ジミー時田&マウンテン・プレイボーイス
1980(昭和55)年7月12日 山下洋輔3
1980(昭和55)年8月24日 金井英人5
1980(昭和55)年9月27日 世良譲3
1980(昭和55)年10月25日 今田勝3
1980(昭和55)年11月22日 金子晴美+沢田駿吾4
1980(昭和55)年12月20日 与田輝雄4
1981(昭和56)年1月17日 佐藤允彦&メディカル・シュガー・バンク

1981年2月号の”スイングジャーナル”を参考

戦前派のジャズメン

big band

UnsplashJens Thekkeveettilが撮影した写真

こうやって、グランドホテル浜松で演奏していたジャズメンの多くは戦前派が多いようだ。その中でジョージ川口は陸軍航空士官学校で学び、終戦時は陸軍少年飛行兵だそうだ。ジャズの世界に入ったきっかけは皆さんそれぞれ違うのだろうけれど、戦後米国から流入してきた音楽の影響は大きかったんだろうと思う。

私自身、終戦からの年数がそれほどでも無い昭和生まれなので、ビッグバンドのナンバーにはなじみがあるし、聞くのが好きだ。ただ、浜松に居た頃はよく聞いていたのだけれど、その後はビッグバンドの演奏を聴く機会が減った。それが流行によるものなのか、ただ、そういう場に自分が居ないというだけなのか、それは分からないけれど・・・

数々のジャズメン

先述の様に、先代戸田和夫社長や戸田賢治社長は音楽に非常に理解があり、たくさんのジャズメンを”サムデイ”に呼んだ。世良譲トリオ、サックスの松本英彦、タイムファイブ、サックスの与田輝夫、原信夫、ドラムのジョージ川口、ギターの沢田駿吾等々がこの”サムデイ”で演奏していたわけだ。

流石にいつも大物が来るわけではないが、有名無名に関わらず色々なミュージシャンが演奏してくれるラウンジ、それが”サムデイ”。

 

s先代社長の好きだった曲

先代社長和夫さんは感激屋で社員の心を掴む人柄と明るい心で一緒にいると楽しくなる方。この先代社長が好きだった曲は”マイウエイ”、”サニーサイド・オブ・ザ・ストリート”、”朝日のように爽やかに”、”思い出のサンフランシスコ”、”ドラムブギ”、”酒とバラの日々”、”今日の日はさようなら”等々。

“今日の日はさよなら”

ホテルの地下一階にピアノバー”ブラディマリー”があった。パーティーの終わりにみんなで手を繋いで,”今日の日はさよなら”を先代社長自ら音頭を取り歌う。こんな素敵な先代社長も昭和57年1月12日未明、突如として享年58歳でその生涯を閉じてしまった。心不全だったと聞いている。私の感性へ多大なる影響を与えてくれた人……今でも尊敬しております。

これはご長男の賢治さんにも引き継がれていたようだ。賢治さんが本館のサムデイで、ご友人を呼び、大きなジャックダニエルのメガボトルを片手に振舞っていたのを昨日のことの様に思い出す

Now John at the bar is a friend of mine.He gets me my drinks for free.

ドリンク

Oli PによるPixabayからの画像

私はサムデイでは大抵水割りだった。何度も通う内に、バーテンのミナミ君、五十嵐君、Kマネージャー(ガッチャ)と意気投合し、仲良くなった。ビリージョエルの”ピアノマン”という歌がある。あの歌の中で”Now John at the bar is a friend of mine.He gets me my drinks for free.”というフレーズがあるが、まさにあんな感じだったな・・・

具体的にはかけないけれど・・・ガッチャ、ミナミ君、五十嵐君ありがとう。そういえば、私の大学の同級生が浜松に来るというので、ガッチャとミナミ君が、賢治さんから愛車ポンティアックを借りて、我々を舘山寺方面に連れて行ってくれたっけ・・・ガッチャ曰く「〇ちゃんの、婚約者だと思って緊張しちゃったよ」だった。懐かしい思い出だ。

そういえば、サムデイでは他のレストランのメニューも注文出来た。よく注文したのは、シーフードサラダと五目焼きそばだったかな・・・中華料理「朱茂林」の調理人(名前は忘れた)も同じ独身寮だった。

夜中にみんなで出かけるのも楽しかった

夜遊び

UnsplashAnthony Aduが撮影した写真

ラウンジ”サムデイ”は午前2時までの営業で、営業が終わっても何故か私はカウンターに座ったままということが多かった。彼らが「これからどっか行こう!〇ちゃんも一緒にどう」と誘われ、嬉しくなって一緒に出掛け、外食したものだった。それから午前3時、4時までフラフラしていた訳だ。私もまだ20代で若かったなあ・・・、今だったらとてもそんな生活は出来ない。今は午後9時には眠くなるね。

そういえば、スタッフの芝崎君は同じ単身寮だった。芝崎君は当時日産ローレルに乗っていて、ハンドルさばきも上手だったなあ・・・ただ、色々あって彼も寮長(須川さん?)からにらまれていたけどね・・・(笑)、確か芝崎君はやはり独身寮にいた若者とフリスコで働いていた記憶がある。二人とも元気だろうか?

芝崎君がある時東京に行くと言って、サムデイを辞めて行ったが、今どうしているだろうか?最初はガソリンスタンドで働くと言っていたっけ・・・そういえば、後年、鈴木君というバーテンとも仲良くなった。ただ、彼は後にアクトシティのバーテンになっていて、会いに行ったことがあった。鈴木君はどうしているかなあ・・・

 

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